東京には空がない

 『青鞜

 “元始女性は太陽であった…”。平塚らいてうの言葉であります。

     青鞜社は、1911年9月から1916年2月まで…

  52冊発行した、女性による女性月刊誌

  平塚らいてうが編集長を務めました。ちなみにその後の編集長は、私が最も惹かれる人…伊藤野枝となります。

 そして…『青鞜』の創刊号の表紙を描いたのは、

 長沼智恵子でした。

 後の…高村光太郎の妻となる…

 あの…有名な『智恵子抄』の高村智恵子でした。

 そして5月20日は。智恵子が生まれた日なのです。…

 「わがこころはいま大風の如く

  君にむかへり愛人」

     『郊外の人に』

 「いやなんですあなたのいつてしまふのが」の

        

 『人に』などを…若い頃に読んだ…私は、

 光太郎の智恵子への一途な想いに…ここまで光太郎に言わせてしまう智恵子という女性を掘り下げてみたい気持ちに駆られました。

 智恵子は、当時としては珍しい女流洋画家で…紙絵作家です。

 1886年(明治19年)5月20日福島県安達郡油井村

 に生まれます。

「智恵子は、東京には空がないという、本当の空が見たいという、」

 『智恵子抄』に収録された『あどけない話』

      有名な詩ですね〜

  智恵子の本当の空は、安達太良山の山の上

 に毎日出ている青い空が本当の空だと言うんですが…

  東京のくすんで見える空ではなく

  故郷の福島県安達太良山から見える空を恋しがる…

  智恵子に…

 精神分裂症の微候が現れたのは、46歳の頃でした。

 生家の破産…家族の問題…そして智恵子自身の絵画制作の行き詰まりなどが重なり…

     睡眠薬での自殺未遂

 光太郎は、智恵子を伴い故郷福島の温泉や

 九十九里浜へ転地治療をしますが…症状は全く良くならず…

  やもなく南品川ゼームス坂病院に入院するのです。

 病状は決して良くも悪くもの状態が続きますが…

 入院生活の中…画家の才能が開花し…素晴しい

      紙絵…切り絵の

 作品を次々と生み出していくのでした。

 そして…光太郎に看取られ、昭和13年10月5日に52歳という若さで

 生涯を終えるのでした。 

 『智恵子抄』と智恵子の切り絵の本を一緒に保管してあるのですが…

  今日一日中探しましたが…見つからないんです🥲

 見つかりましたら…本をご紹介させて頂きます。

 今日は、高村智恵子と言う女性の生き方を

 知る事ができる本をご紹介します。

     『恋と芸術への情念』

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 わたしの宝物の文庫です…

今朝…

 「智恵子さんの本当の空を見に行きたいなぁ」とボソリと言う私に…

 「ボーナス出たらお金渡すからお父さんと行ってきなよ…福島の温泉でも浸かって身体休ませてきなよ」と次男

 なんて…優しい🥲

 「1人分しか出してあげれないけど…」

 そうだよね〜(笑)

 はい…後は、自分たちでお金工面いたします。😄